私たちの学院の2026年度の年間主題聖句は、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」です。
この言葉の前には、「だから」という言葉があります。「人にしてもらいたいことを人にしなさい」という呼びかけには、その理由があるのです。その直前には、「求めなさい。そうすれば、与えられる」とあります。私たちに必要なものを、神さまが与えてくださる約束が語られています。だから、今度は私たちも誰かのために生きていくのです。
さらに、この「だから」は、山上の説教全体につながっているとも考えられます。
山上の説教の最初で、イエスさまは「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と語られました。
「心の貧しい人」とは、「もっと謙遜になりなさい」という意味ではありません。
私たちは、いつでも自分の力で何とかできるわけではありません。悲しいことがあれば悲しみ、困ったときには途方に暮れ、誰かに支えてもらわなければならないこともあります。
「自分には、できないことがある」。
そのことに気づくこと。それが、聖書のいう「心の貧しさ」なのです。
災害を目の前にしたとき、私たちは自分の無力さを思います。どれほど備えていても、どうにもならないことがあります。昨日までの当たり前の生活が、一瞬にして失われることもあります。
けれども、イエスさまは、そのような私たちに向かって「幸いである」と語られます。
なぜでしょうか。
それは、私たちが一人で生きるのではなく、支えられて生きる者だからです。そして、自分も支えられていることに気づくとき、私たちは誰かの隣に立つことができるからです。
学校生活でも、思い通りにならないことがあります。生徒も教師も、疲れたり、悩んだり、どうしたらよいのか分からなくなったりします。
そんなとき、すぐに正解を求めるかもしれません。一緒に困る。一緒に考える。一緒に悩む。どうしたらよいのか分からないときには、「一緒に考えてみよう」と言えるといいと思います。そう言って、誰かの隣にいることができます。
私たちの幸いは、苦しみや悲しみのない場所にあるのではありません。神さまは、私たちの苦しみや悲しみから遠く離れておられるのではなく、そのただ中にいてくださいます。
だからこそ、イエスさまは私たちに、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と語りかけます。
私たちは、誰かを支えるだけの強い者ではありません。私たち自身も、神さまに支えられ、誰かに支えられて生きています。
自分も支えられている者として、誰かの隣に立つ。
そこに、イエスさまがおられます。
そして、そこに「天の国」が始まっているのです。